なぜ宗教が存在するの?(否定的なニュアンスをこめて)
そう思ってる日本人は多い。
僕も以前はそう思っていた。
今回のコラムでは、「宗教がなぜ存在するのか」「日本人は無宗教なのか?」を二回に分けて論じたい。
無秩序な社会では全員が不幸になる
ひとつ例え話をしてみよう。
学校を思い出してほしい。
学級崩壊で荒れ果てたクラスというのは、誰一人として幸せじゃないのである。
いじめ、犯罪、疑心暗鬼。
ひたすら互いの足の引っ張り合いに疲弊する日々。
大抵はスポーツや勉強でも碌な結果が出ない。
全員が自分の都合だけを考えた結果はまさにそんな世界なのである。
幸せな社会にはマナーが必要
彼らに必要なものは何か?
ルールだろうか。
いや、それだけでは足りないのだ。
ルールで雁字搦めになった集団もまた不幸だ。
無法地帯や無政府状態よりは独裁政権や監視社会の方がマシというだけの話だ。
ではどうしたらこの問題を解決できるか?
倫理観(マナー・行動規範)だ。
殺すな、奪うな、欲に塗れるな、困ってる人に手を差し伸べろ・・・。
一人ひとりが自分を律する必要があるのだ。
宗教はマナーの根拠
では、マナーはどうやって教えられるか。
その役割を担うのが宗教なのである。
宗教の教えはしばしば抽象的で良く分からないように感じるが、抽象的だからこそあらゆることに応用できる。
マナーがない状態でルールだけがあっても、「ルールに書いてないから問題ない」という屁理屈がいくらでもまかり通ってしまう。
国家をまとめ上げるために宗教が利用された。
歴史を振り返ると、人は宗教活動を通して倫理観を身につけてきた。
国家レベルでも、国民を纏め上げるために統一したマナーが必要だった。
それに利用されたのが宗教である。
ローマ帝国にとってのキリスト教、アラブ人にとってのイスラム教、日本人にとっての仏教。
宗教が広まった背景には、国家の思惑があった。
同時に個人レベルでも、マナーを共有できている人とは、コミュニケーションがしやすくメリットがあるであろう。
マナーがある生徒で構成されている学校は、生徒も楽しく過ごせて、スポーツや勉強でもしっかり成績を残すことができて、みんな幸せなのである。
これが宗教が存在している理由である。
参考文献。宗教を知ることは、自分のことを知るきっかけにもなります。