池袋ウエストゲートパーク、今観ると古いな

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久々にドラマ「池袋ウエストゲートパーク」を見返した。

ドラマのIWGPについて書きたい。

現在動画配信サービスでは配信されていないので視聴方法がDVDしかないのが残念。

放送当時(2000年)と現代(2015年)の比較

放送当時2000年はまだ時代が混沌としていた。景気はバブル期と比較して右肩下がり。
それを受け入れられずに、オウム真理教や売春女子高生の台頭など、現実に露骨に抗おうとする若者が少なからずいた時代であった。

現代はその問題について折り合いが付けられるようになってきたと思う。
景気はゆるやかに後退しているが、社会に大きく抗ってもしょうがない。
期待は持たず、でも利用できるところは利用し、何かしらの武器を持って個々人として生きていくことを、誰しもが多かれ少なかれ選んでいる。

SEALDsはある種、前時代的なものを取り戻そうという試みであったが、
時代はたぶんそれを求めていなかったのだ。
代表の奥田愛基氏にはある種IWGPのキャラに近いカリスマ性があったと思う。

当時求められてた人と今求められてる人

さて戻ってIWGPの時代。
当時流行っていたGTOや池袋ウエストゲートパークといったドラマには、
学歴至上主義批判のメッセージが多分に込められている。

時代を象徴するのが、主人公マコトの実家が青果店であるところである。
またサブ主人公のキングの実家はサウナである。
現代、個人商店と言うものはすっかり淘汰され、巨大資本の手が隅々まで行き渡るようになった。
もはや親の経営する個人商店という資本でぬくぬくしながら生きていくことは不可能である。

ただ反骨精神だけで生きていくには、日本は成熟し過ぎてしまった。
成熟した社会に適応した人間からにとって、反骨精神の塊のような人間はただ自分たちの秩序を乱す邪魔者になってしまった。
日本でやっていくためには、顧客の声に耳を貸し、勉強して知識をため、周囲とうまく折り合いをつけ、常に頭を使うことが必須なのである。
Instagramをやってる女子高生でさえ、いいねを獲得するために頭をひねっている。
ただ拳と気合だけでやっていく土壌は日本にはないのだ。

って考えると逆に、今度は拳と気合がある人は少数だから目立てるという話もあるかも?

それでもIWGPはすごい作品だ

と、ここまで時代を比較して、IWGPを古い作品と言ってみたものの、このドラマの魅力はまったく廃れない。

キャラクターたちの絡みの奥深さ

長瀬智也と窪塚洋介という対照的な俳優を、主人公とナンバー2にすることで作品に奥行きができている。
ショートヘアの清潔なイケメンばかり出てくるただのドラマとは大違いである。
基本的に女絡みのトラブルを解決する物語なので女性キャラも積極的に絡んでくる。

そんな華やかなチョイスに対して、差し色としての無口な山下智久や、電波オタクや、シンゴジラで怪演を見せる前の「逆引きこもり」高橋一生や、ゲストの島田洋七も光っていた。

キャラの多さがGボーイズの規模感を象徴していた

キャラが多すぎることや、事件も同時進行的に複雑であると言う所も逆に、雰囲気を高めることに成功していた。
Gボーイズはあくまでキング(窪塚洋介)の独壇場ではなく、たくさんのメンバーを抱えるチームであるという規模感を感じることが出来る。
俳優を見るためのドラマとしてみるとこの作品は完璧にな作品と言える
(後から観ると、出演俳優がその後次々と売れていったために個々を識別できて大量のキャラも処理できるといえるのも確かだが)。
雰囲気に酔うことのできる設計である。
ここに芸術家宮藤官九郎としての感性がビビット出ている様に思える。
余談だが宮藤官九郎は作品を全面的にコントロールする様になった近年の作品よりも、
GOやピンポンや池袋ウエストゲートパークといった売れ始めてきた頃の作品の方が僕は好きだ。

2010年代、池袋はすっかり埼玉の中高生と女オタクの街と化してしまったが、
IWGPはあくまで時代の象徴としていつまでも池袋に残り続けるだろう。

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