「大友克洋は半隠居状態であるのにもかかわらず、大友克洋待望論が定期的に湧き上がるのはなぜか?」について考察する。
ていうか今回のレビューもここに繋げたくてはじめたのだが前書きがくそ長くなってしまった。
この理由は、その後のアニメが美少女/美少年系にひた走ってしまったことにある。
漫画が大友克洋の延長線上を今もなぞっているのに対して、アニメはそうならなかった。
サイバーパンクのブームは終わってしまったし、AKIRA、攻殻機動隊、カウボーイビバップのような路線のカッコいいSF作品は書き込みが大変なのに対して人気が出ず、たまに出てもサブカル止まり。時代の芯を捉えた作品は00年代以降出ていない。
結局、少年少女の青春を描いたアニメが全てをかっさらっていった。視聴者のニーズもさることながら、作り手にとっても楽だからである。
そして誰もが、美少年・美少女の青春グラフィティが食傷であるのを分かっていながら、それを生産・消費するのを止めることができない。
大量消費社会の有り様が、アニメに対しても起こっているのである。
「MEMORIES」収録の「大砲の街」の映像はすごい。マジですごい。大友待望論が上がるのも、結局この技術がロストテクノロジーと化してしまっているからだ。
この閉塞感はどうしたらいいのか?
やはり、クリエイターの地位を向上させて、もっと新しい表現を発明する余裕を持ってもらうしかない気がする。
クリエイターの地位向上のために
漫画家やアニメーターの給料を向上させるために僕ら読者・視聴者に出来ること
昔書いた記事。社会は変わらないので、まず消費者である我々ができることを考えた結果、ここに行き着いた。
第1回: 大友克洋が漫画界に残した功績について
第2回: 映画「MEMORIES」の感想
第3回: 海外の漫画事情と大友克洋
第4回: 「AKIRA」以降の大友克洋
第5回: 大友克洋待望論はなぜ定期的に湧き上がるのか