【西部邁の自殺】「醜態を晒してでも戦う姿は美しい」は本当か?

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前向きな自殺

西部邁(ゴーマニズム宣言で小林よしのりと喧嘩してた人)が自殺した。

西部邁は自分の死に時を自分で決めると著書で述べていたらしい。

つまり「前向きに自殺した」というわけだ。

老いたクリエイターの生き方

老いて切れ味の鈍くなった作家がどう生きるかについて、僕は興味がある。

大体こういったルートを歩んでいる。

  • それでもやり続ける。
  • 後進の教育に励む。
  • 引退して隠居する。
  • 自殺する。

僕は自殺するという選択を、 かつては非常に不幸なものだとして捉えていた。

だが最近少し考え方が変わってきた。

きっかけは、先日の西部邁の自殺だ。

そういえば寺山修司も「自殺学入門」と称して、「死ぬ自由」について肯定的に描いていた(出典「書を捨てよ、町へ出よう」)。彼自身は病気で早逝することになったが。

老化・死は不可避

老化や死は絶対に避けられない。

だから一足先に自決するというのは、突き詰めて考えれば決して狂った選択ではないことがわかる。

前向きなものである。

自分の生き方に満足ができなかった時点で人生終わらせる。

作品を終わらせるように自分の人生を終わらせる。

どうせ人は死ぬので、早いか遅いかだけの違いしかない。

「醜態を晒してでも戦う姿は美しい」←本当か?

そういう意見があるのもわかる。

だが、本当に絶対にそうだろうか。

老いに抵抗することが正しいことなのだろうか。

行き過ぎた若作りはみんな嫌いなはずだ。

老害は迷惑だが、若者に媚び売ってくる年寄りもまたうっとうしく思う人が多いだろう。

仏教は老いという不可避なものを受け入れることを是としていないだろうか。

「滅びの美学」「散り際の美学」という言葉もある。

誰しもが、死に物語を持たせることができる。

天寿を全うするには金が必要問題

天寿を全うしたい、という欲を捨てれば、人生はもっと自由になる。

「生きたいと思った時に生きられる」という保険のために、多大なる自由を売り飛ばさなければならないという現実がある。

天寿を全うする義務など本来はないはずである。

天寿を全うする代わりに、自分のやりたいことを貫き通すというのもひとつの人生の選択である。

そして負けを認めた時に、金がなくなる前に、世間に美学を蹂躙される前に、死ぬ事は一つのメッセージとも言える。

あくまで自分の人生の最適な終わらせ方が自殺であったというだけである。

本質的にじじいに生きる価値はない

という意見をホンマでっかTV で見た。

そもそも定年を迎える前の時点で既に存在価値を失っているおっさんというものは確実にいる。

年功序列で給料をもらってはいるが、会社にとって不要な人材である。

生涯働ける仕事であればまだいいがそうではないだろう。

社会保険の圧力で若者の未来が摘み取られているのは一つの社会問題である。

だから、何もスポーツ選手や芸術家に限った問題ではない。

アウトサイダーはそれが少し早いだけで、誰しもに訪れる問題なのである。

「死ぬ自由」「死ぬ幸せ」といったことが今後ますます大きなテーマと思ってくるのは間違いない。

尊厳死の問題よりももっと本質的な話である。

日本には、「姥捨山」という、ある一面では他殺を肯定的に捉えうるエピソードすら存在する。

50歳で自殺するのと、90歳で天寿を全うすることに本質的な違いはあるか?

これはもはや個人の価値観の問題である。

今の所、前者をアウトサイダーと呼び、後者を普通の人生という。

だが、僕は若くして自殺をするアウトサイダーを不幸とは呼びたくない。

それは、「天寿を全うする選択を強いられることによって不幸になっている人間」が存在すると感じているからだ。

西部邁と小林よしのり

そういえば西部邁を徹底的に攻撃していた小林よしのりも「死を選択すること」については肯定的に描いていた。

「戦争論」では、現代日本人の異常なまでの死への忌避を批判し、旧日本軍の死に様から学べることがあるという風なことを述べていた。

戦争論は極論ではあるが、極論だからこそ新しい視座を持つことができる本として僕は高く評価している。

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