その昔、三人で二作品を合作していたことがある。
もう少し具体的に言うと、以下のような形であった。
- 二人組で一作品を作る
- 違う二人組でもう一作品を作る
- 原案と執筆者で分業する
- 原案が考えて、執筆者が書く
- 書いたものを原案がレビューし、アドバイスをする
- 執筆者がアドバイスを元に修正する
- そのサイクルを4日毎に繰り返す
- 「一作品の原案」「一作品の原案ともう一作品の執筆」「一作品の執筆」の三人に別れた
- このスタイルに取り決めや根拠はなく、自然な形でそうなった
この形式で、異なる二者で作った二作の合作だった。
合作したら2倍面白くなるかと思いきや、むしろつまらなくなった
なんと二作品ともに共通して、たいへん興味深い現象が起きた。
それは、
「原案は物語論上で概ね正しいことを言っているのに関わらず、
執筆者が言う通りに修正すればするほど、どんどん作品がつまらなくなっていく」
ということだ。
具体的に言うと、以下のような作品だ。
- キャラクターの人間性がブレブレ
- キャラ・台詞・展開、どれをとっても表面的で軽薄
- 見せ場がどこなのかよくわからない
- 誰に読ませたいかわからない
- 読者をどんな気持ちにさせたいのかが見えない
なんだかわからないものが出来上がる次第となった。
執筆者2名には共通した傾向が見られた。
最終的に「その作品のことを好きになれないし面白いと思えない」と切り捨てたのである。
原案2名にも共通した傾向が見られた。
最終的に「この作品は執筆者の実力不足のため面白くない」と切り捨てたのである。
このシンメトリーは実に興味深い。
全く異なる二人を同じシステムに当てはめたら、同じものがアウトプットされたのである。
ではどこがダメだったのか?
以下はメンバーのうちの一人である僕の分析だ。
執筆者は原案の言われた通りに直すだけにとどまっていた。
原案の出すアイデアの面白さの本質を理解せず、表面的なコピーを行った。
これにより作品は軽薄なものへと変容していった。
さらには、このプロセスを経てどんどん作品に対する熱が冷めていく。
面白いものを作るという真の目的を見失い、ただ原案のいう通りに作品を改変するだけのマシーンになってしまっていた。
原案は執筆者の特性を生かそうとも理解しようともせず、一般論を述べるだけにとどまった。
アドバイスだけで面白いものが出来るなら、同じ編集者についた全ての作家は等しく面白いものを生み出しているはずなのだが、現実は全くそうなっていない。
結局作品を作るのは執筆者なのである。
その可能性を引き出すところまで行けて初めてアドバイザーとしての役割を果たすのではないか。
手段と目的の履き違え
手を動かすのも、口を動かすのも、打ち合わせするのも、
ダメ出しをするのも、締め切りを設けるのも、睡眠時間を削るのも、
全ては面白いものを作るだけの手段である。
その手段をスタンプラリーのように踏むことで何かをした気になってしまっていた。
責任のなすりつけ
誰もその作品に責任を取らなかった。
互いが互いのせいで作品がつまらなくなったと感じるようになった。
ではどうすれば良かったのか。
失敗した理由を分析するだけでは発展性がないため、そこから導いた成功する方法を述べて締めたいと思う。
と言っても、失敗した理由を反転させただけだが。
「関係者各位はどんな立場であれ、
当事者意識を持ち、互いへの尊敬を抱き、
面白いものを作るという目的かつ本質を見落としてはならない。
もしそういうつもりがないのであれば、権限も譲渡すべきなのである」