時代が飯野賢治に追いつくことは最期までなかった

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飯野賢治というゲームクリエイターがいた。

彼が時代の寵児と言われていた90年代はゲームの絶頂期である。
プレステとスクエアとエニックスがエンターテインメントの最先端をいっていた。
その横で、泡沫政党の党首的存在として飯野賢治がいた。
飯野賢治というのは、その混沌とした時代を象徴していたような男であった。

ゲームの惑星という、ホストを飯野賢治がしていた番組があった。
ピエール瀧と飯野賢治がホストでオープニングはコーネリアスという、90年代のサブカルを象徴するような番組であった。
そこにいしだ壱成がゲストとして来ていた。
いしだ壱成はゲームをやるかという問いに対して多少歯切れの悪い回答をしたかと思えば家にセガサターンとnintendo 64があると言う。
それだけゲームを誰もがやっていた時代だったのだ。

ただこの人の功績はゲームそのもの以外に渡っていた。
ゲームクリエーターが顔を出すようになったのもこの人からである。名越稔洋や日野晃博の先駆けと言っていいだろう。
ゲームにムービーを早くから挿入していた。高価なcgムービーを入れていた。FF7は1997年、Dの食卓は1995年の話。
プレステを裏切ってセガサターンでエネミーゼロをリリースしたというあまりにも有名な事件の背景には、
ソニーがソフトの生産本数を厳しく制限していたことがあり、これ以降サードパーティーは口を出せる様になったという。

結局ゲームクリエイターとしては飯野賢治は超一級のヒット作・名作を残すことはなかった。
時代が求めているものに彼は歩み寄ることが出来なかったし、しようともしなかった。
だが、彼の先見の明は常に正しかった。常に時代の数歩先を進んでいた。
それは生涯にわたっていた。スマホゲームにも早くから参入していた。

ちなみに2011年では菅野ひろゆきという、Eve burst errorやYu-noを制作したクリエーターも亡くなっている。
この時代のゲームの象徴といえばやはりプレステスクエニであるが、この2人はセットで語られることが多い。
ゲーム業界の裏を支えていた飯野賢治や菅野ひろゆきのことを時々思い出しては当時のゲームをやってみたくなるのである。

当時のことを教えるのであればファミ通で連載していた「おとなのしくみ」という鈴木みその漫画を読むのが一番良い。
これはプレステ発売前からスタートした漫画で、ゲームの激動の時代を知る当時の資料としてはたいへん貴重である。
飯野賢治も2巻だったか3巻だったかでゲストとして登場している。

息子へ
[blogcard url=”http://fyto.com/eno/archives/2011_03_post_514.html”] 飯野賢治の最後のコミットログである。
答えを出すことへの大事さを説いた。

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